承認欲求と人生。
昔はあったけれど今は全然無くなった承認欲求。
どの時点でどうやって気持ちが変わったのかを振り返って考えてみる。
承認欲求の塊だった貧乏極貧時代
遡る事数十年前。
スーパー貧乏極貧時代には承認欲求が大変に強かった事を覚えている。
この頃は自分を誇るものがなにもなく、よくネタにする残念な人そのものだった。
仕事も誇れるような仕事ではないし、学歴も小卒レベル。
見た目が良いわけでもなければズボンのケツは破れている。
こんな自分だったから、周りにはバカにする人も多くその人たちを見返したい!と思った。
高級車に乗って注目を浴びている人を見ると自分もそうなりたいと思った。
そんな気持ちは確かにあった。
あの時は自分が満足できる状態になかったのだ。
多分。
それが現在では全くなくなり、むしろ目立たないように生活したいと思っている。
この変わり様は何だったのかと自分でも振り返って考えてみると、自分で自分を認められたことが大きいのではないかと思っている。
ケツが破れていた当時に憧れていた車も、欲しかったバイクも手に入ったし、ムカつく上司にこき使われて時間を切り売りしないと生きていけない人生も脱した。
全てではないにしろ、自分で嫌だと思っていた事の大半が問題解決されている。
自分がしたかった事が出来るようになり、自分自身の人生に満足している。
だから、そこに他人からの
『凄いね!』
の一言は不要になっていると思う。
自分で自分の事を認められるので他人が認めてくれなくても影響は1つもない。
反対に他人が羨ましい人生だと言ってくれても、自分で満足していなければ幸せは感じないだろうと思う。
自分が認められない側からの一方通行な質問
・『フェラーリ買ったのはぶっちゃけ女にモテたかったからってのは正直ありますよね!?』
・『スーパーカー乗って彼女の飲み会の送迎とかやったでしょ?』
・『合コンにフェラーリ乗って行きましょう!』
・『ガヤルド程度の安物で威張るってどんな気持ちですか?』
・『人の多い所に行きたくなりますよね!わかります!』
実際言われたことがある数々のこれらのコメントも、全てご自身が承認欲求が満たされてない生活を送っている事がバレてしまう質問だ。
自分自身がそれらにのってモテたい、自分だったらそうしたい、つまり現在はそう出来ていない、出来ていないから相手を叩いて敢えて自分がそれをしない正当性を主張せずにはいられない、、、これらが言語されてこのようになる。
昔の自分だったらカリカリしていたかもしれないが、今となっては何を言われても何も思わない。
相手の事を『寂しい人だなぁ、、、』とすら思わない。
興味が無い。
自分の人生の楽しい、幸せを感じる基準に『他人がどう思うか』という要素が存在しない。
だから今後も自分のやりたい事をやりたいようにやっていくし、そこに他人の評価や基準は一切考慮されないのは間違いない。
他人がどう思うかなんて関係ない。
自分のやりたい事をやりたいようにやろう。
自分の人生なんだからね。
他人の目を気にして生きる人生なんてつまらんぞ!