
物と人生の幸せの物差し。
自分の欲しい大抵のモノは手に入れられてその結果どうだったかという話。
人生とモノの価値
最新の車を買った。
最新のiPhoneでもいいが。
みんなから購入おめでとうと言われいい気分になる。
ピカピカの新車に乗ってお出かけするのは格別な気分だ。
だが、数年も経つとどうだろう。国産車は興味ないから知らないがドイツ車の場合はモデルチェンジのスパンが早く2~3年でモデルチェンジしすぐに型落ちになってしまう。
ちょっと前に新車で手に入れて、もてはやされていた車も今ではただの一世代前の型落ちの車になり、同時に新しくモデルチェンジした新型車を購入した人が
『最新の車の購入すごい!!購入おめでとう!!』
ともてはやされている。
これは他人軸に重点を置いた話ではあるが、自分の価値観だとしてもやはりモノは所詮モノであり、時間と共に熱量が落ちていくのが常。
ついにこの車を手に入れた!一生乗ります!!
そう言って一生乗った人を見たことが無い。
繰り返すたびに一生の年数は短くなっていき、最終的には
一生=3日
くらいになる。
実体験として自分で欲しいモノを全部手に入れられて思うのは、人生はモノでは無かったということ。
どれだけ年単位で憧れた物でも手に入れて少し経つと飽きる。
欲しい熱って手に入れるまでが一番アツくて、手に入れてからは急激にしぼむ。
そして次に何かが欲しいと思う。
でも手に入れるとこんなもんか、、、と思いまた違うものが欲しくなる。
これの繰り返し。

かけがえのない体験
先日娘と2人で栗拾いに行った。
拾いに行ったと言うか落ちていただけだが。
イガグリを蹴飛ばしたら中身の栗がドラゴンボールのように綺麗な栗が飛び散った。
娘と感激。
栗が出てきた。
まるで宝物が出てきたかのように。
娘が真似をして
『きっき!!』(キック)
と言ってイガグリを真似してキックした。
素晴らしいタイミングでキックしたため跳ねて父のスネの辺りにイガグリがヒット!
イテー!!
娘爆笑。
また別の日は子どもと2人で大きな公園に遊びに行き、遊びの途中でソフトクリームを食べた。
暑かったこともあり途中で勢いよく溶け出し2人でベタベタに。
自分は娘に早く食べて!とせかしていたが娘はそんなやり取りを数年たった今でも覚えていて話をする。
『暑くてブルーベリーアイス溶けちゃったんだよね!』
その時はまだそんな風にしゃべれないけれど、言語化できないだけで暑くてブルーベリーアイスが溶けちゃったと当時でも思っている。そして大人からすればそんな事が子どもにとっては年単位で忘れない思い出に。
数年前に何百万も出して購入した新車の納車など自宅に持って来てもらったのか、納車のためにディーラーまで取りに行ったのかなど覚えてすらいない。
担当者の名前も顔も。
結局お金やモノではない。
それに気づいた自分は子ども達や大切な人と様々なことを経験する時間を犠牲にしてまでモノを求めることを辞めたんだ。
