見栄と相反。
世の中見ていると見栄っ張りが非常に多い。
SNS効果だろうか。
ある程度の歳になって見栄を張っている人はもう見栄を張る事しか興味が無くなるので、本質的に伸びていく可能性は低いように見える。
対して自分が出来ないことを認められる人は伸びしろが大きいように見える。
見栄っ張り道大図鑑
自分の心の中にはザコ専用の図鑑がいくつかあり、そこには人生で出会った数々のザコが収録されている。何ページかめくると見栄っ張り道免許皆伝の人たちのページが出てくるのだが、そこに収録されているのは以下のこんな人たちだ。
彼らの多くは
『いかに他人からすごく見られるか』
という価値観にのみすべてが注がれ、本質的に自分を磨くことに一切興味が無い。
会社に行っても
『クライアントのドキュメントをサマってリソース考えてメリデメ考慮したうえでプライオリティ決めて!』
とか謎の言語を発する。
わかったから会社には遅刻せず来い。
そして購入する車も新車のフェラーリでもいいんだけど、燃費が悪いから軽自動車やプリウスの中古を買うと話す。
その単語を使うことがカッコいいと思っているのかもしれないが、周りから自分がどう見えているかまで考えられていないので、みっともない事この上ない。
こんな事を30歳過ぎてもやっているようでは正直、今後の伸びはかなり厳しいと言わざるを得ない。
こういう人たちは決まってこう言う。
『自分はフェラーリはいらない。』
と。
いらないという事は、いるという選択肢も取れる、購入するという選択肢も取る事が出来るという事で間違ってないですね。
それに対して伸びしろのある人は必ずこう言う。
『自分はフェラーリは買えない。』
いる、いらないと選択肢の前に自分にはそもそも買えません。
これは自分自身の立ち位置を正確にわかっているから言えることだし、こういう人はもし買えるようになりたいと思っても手順を踏んで購入するまでの道のりを考えることが出来る。
対して前者のいらないという人は『なぜ、敢えて、自分がフェラーリがいらないのか』と、相手を説き伏せるために毎晩徹夜して文言を考え続けるだろう。
『クライアントのドキュメントをサマってリソース考えてメリデメ考慮したうえでプライオリティ決めて、、、。』
のように。
自分の出来ない事を認められる強さ
自分がフェラーリが買えない事なんて本人も周りの目にも明白なのにそれでも、『いらないなー。』という見栄っ張りは後を絶たない。
対してお金持ちの多くは『買えない』という言葉を多く使う。
これには本当に高くて買えないケースも勿論含まれるが、実際購入するだけの資金はあるのに”自分には身分不相応で買う権利がないよ”という謙虚な姿勢でこの言葉を使っている事もある。
買えない貧乏人は『いらない』といい、購入できるだけの資金があるお金持ちは『自分には身分不相応で買えないよ。』というのである。
どこまで行っても自分はまだまだ、、、こういう考え方がスポーツの世界もビジネスの世界も大きな差を作るのだろうね。