自分は学校が大嫌いだった。
自分は学校が大嫌いだった。
どの位嫌いかって言うと、卒業してもう10年以上余裕で経っているのに、体調が悪い時は決まって学校の夢を見るほど。
知識の習得は可能性を広げるので必要だと思うが、集団生活は不要と思う個人的な理由。
好成績だった人→良い人生を歩んでいる訳ではないという事実
自分も随分といい大人になっている。
いい大人になっているというのはつまり、歳をとっているという事だ。
気持ちは若いままだが、体はそうはいかない。
それでそんな状態になった今、改めて学校について思うことがある。
自分は学校が死ぬほど嫌いだったので毎日が苦痛で仕方がなかった。
この行動にどんな意味があるのかわからない事を『みんなやってるから』『みんなやるものだから』と言って強制されるのが嫌で仕方なかった。
それで反発していたし、やったとしてもやる気が無かったので、全ての科目に於いて劣等生のレッテルを貼られたのが自分である。
それに対して近所に住む同級生はスポーツ万能、勉強も出来て、生徒会長までやって優秀な生徒の鏡であった。まさに出木杉君。
大学でもゼミとかセミとか何だかわからない集団があり、強制的に入る必要があった。
興味なかったので一番害の無さそうなところに入って、のらりくらりとかわしていたところ、みんな普通は参加するゼミに出ない事を怒り、何かにつけて仲間外れにしようとするゼミ長とその取り巻きが現れた。
文化祭では仲間外れにされ、まぁ哀れなものである。自分が悪いのだが。
自分にとっては特大の害だが、向こうからすれば向こうの正義がある。
で、
それから10年後、、、。
当時関わっていた人達何人かを知っているが、自分から見て『羨ましい』と思える生活をしている人は1人もいない。
学校の先生の言う事を守って学校で素晴らしくいい評価を貰ったとしても、学校のルールを完璧に順守したとしても、ゼミの憧れの存在になっても、それが社会に出て誰もがうらやむ暮らしが出来るとは限らないのである。
というかむしろ出来ない。
これは事実と自分の中の統計に基づく。
いまだに心の傷になっている学校の低評価や、たくさんの不快な出来事を心に持つ自分の学生生活とは、一体何だったのだろうかとまじめに考える。
学校の教えは極めて偏向
集団生活は必要だ。
我慢する事を覚えたり、嫌な事でも嫌な顔せずやったりする訓練だ。
そんな事を聞いたことがある。
で、話は戻るがそれを優秀にこなした同級生の誰一人として、大人になっていい生活が出来ていないが、、、?(自分から見て)
学校で頑張って優秀な成績を残した同級生が豪邸に住んでいて、スーパーカーを10台以上とクルーザーとヘリコプターでも持っている生活をしていれば学校でやらされる嫌な事も頑張りがいがある。
でも、自分の周りにはそんな人いなかった。
頭の良い経営者に上手く使われ、早朝から深夜まで働かされている人のみだ。
そんな経営者のスケジュールの左から右まで全てゴルフと温泉だ。
学校はNoといえない兵隊を作る場所だという経営者がいる。
就活と言う言葉はよく聞くけれど、起業活動と言う話は学校関係者からあまり聞かない。
会社のパーツとして生きるための、黙って働くだけの人材を量産するのが学校なのだろうか。
自分も昔学校の教えを守り、嫌な事でも我慢した。
辛いことも我慢して嫌いな人も我慢してやりたくない事も我慢して、、、、その結果、どうしようもなく貧乏でそれから抜け出せなかった。
つまらない人生を送っていた。
それである時期から我慢する事を一切辞めた。
嫌な会社も辞める、今日。
嫌いな知り合いとは縁を切る。今日。
欲しいもので買えるモノや買えそうなモノは全力で手に入れる。今すぐ。
やりたくない事はやらない。今から。
すると人生が上向き始めた。
我慢する事を訓練する必要はないと思う。
欲望全開で欲しい物は全力で努力して手に入れれば良いだけだ。
世の中、人を使う人と人に使われる人の2種類だ。
人を使う人間と同じくらい、自分の人生だって価値ある人生なのだから、自分のやりたい事を我慢する必要はないと思うのだ。
人生一度きり。
心が変わると行動が変わり、行動が変わると結果が変わる。
楽しい人生を過ごそうぜ。